別れ(ローマ)

 ナポリで遅い昼食を摂った後、ローマ行きの列車に僕等は飛び乗った。
空いているコンパートメントを探しながら列車の通路を歩いていると、Nさん夫妻がいる。 ポンペイで再会した後、夫妻は僕等の後の列車に乗ったらしい。 僕等もこの列車にしていればナポリでの乗り換えは不要だったんだけど、ホームで待ってるのも何だし、のんびり列車旅行を楽しもうと入ってきた列車に乗ったのだった。 それにしても、僕等の前に止まった車両に乗ったら、そこに夫妻がいたとは、余程ご縁があるらしい。
 コンパートメントには夫妻しか居なかったので、野暮とは思いながらも、夫妻に促されるまま同じコンパートメントに席を取る。 カプリやソレント、それにポンペイの話など・・・・話すことは山ほどお互いにあるもんだ。 車窓の景色は楽しみたいし、話はしたいし、この旅ではそんな事が何度もあった。
 小さい頃、家族で神戸や大阪へ行った時など、僕は電車に乗るなり靴を脱いで椅子に膝をついて窓向きに座り、じっと飽きることなく外の景色を見ていたもんだ。 知らない土地へ行ったら電車でもバスでも、とにかく外を眺めていたいという思いは未だに変わらない。 二度と出会う事がないかも知れない窓の外の景色、吹き抜けていく景色の一コマ一コマを見ていると、そこに生きる人達の色んなドラマが想像され、それが今までみた映画などとオーバーラップしてくる。

 4人はこの後ジュネーブへ行くと言う。

この時間からだと夜行に乗るのが一番経済的と言うことで時間を確認すると22:40発。 時間があるので、スペイン広場へ行ってみようと言う事になった。 早速、僕等は荷物を預け、駅前からバスに乗るが、方向を間違えて途中下車して反対方向のバスに乗り換える。
 この旅のちょっと前に見た映画、『ローマの休日』のシーンで見覚えのある、あの階段が僕の目前に現れた。 ただ、階段の上に聳えていたトリニタ・ディ・モンティ教会は修復の為か二つの鐘楼とも覆いが掛けられている。 なんて不運なんだ。 あの映画ではオードリー・ヘップバーン扮するアン王女と、グレゴリー・ペック扮する新聞記者のジョー・ブラッドレーがこの階段を降りてくるシーンが蘇る。 
 色んな人が階段に座っていて、中にはパリのサクレクールで見たようなヒッピー風の人も混じっている。 あの寺院前の階段にいた連中のように、やっぱりここでもギターを持った人がいて、一人が歌い出すと周りの連中もそれを追って歌い出す・・・・っと、何だか厳つそうな顔つきのフォーマル・スーツに身を固めた爺さんが階段を登ってきて、ギターを弾きながら歌っている人の前に立った。 文句でも言い出すのかと思ったら、やおらお互いに握手をし、周りの連中とも握手をしている。 そしてその爺さん、ギターを弾いている人の横に座って一緒に歌い出したではないか。 ええなあ、こんな雰囲気っちゅうのは。 僕等も階段に座り、雰囲気を味わう事にした。

 街に灯りが灯り始めた頃、重い腰を上げて駅の方に向かう事にするが、近くにトレビの泉があるので、照明に照らされたあの噴水を見ようと皆で立ち寄る事にした。 照明に照らされた噴水を見ると、この間、昼間見た同じ噴水よりも随分小さな印象を受ける。でも、ここは昼より夜の方が僕は好きだなあ。 彫刻類に当たる照明がが陰影を生んで、昼間見た姿では比較できないほど色んな表情を見せてくれる。 あれだ、あれ・・・ツェーリンゲン噴水に初めて出会った時と同じだ。
 腹が減ってきた。
近くの小さなレストランに入ることにしたが、結構席を待っている人がいる。
僕等も列に並んでなんとかカウンター席に着き、スパゲティーを注文すると1、050リラだとウエイターが言う。 「お前呆けんのもええ加減にせえよ。」思わず出た言葉だが、雰囲気で分かってくれたのか、それとも知っててだったのか、慌ててそのウエイターが500リラに訂正する。 どうもなあ、これは知っててふっかけられた気がする。 何せここは観光地のど真ん中。 僕等日本人を見て、「ええ鴨がやって来よった。」と思っても不思議ではない。

 4人はジュネーブへ行くと言う。
チケットを買ったりするためリザベーションへ行くと、ここでも長い列が出来ている。
僕は4人がリザベーションにいる内に今夜の宿を探すため、預けておいた荷物を受け取ってテルミニ駅を出て街中へ。 明朝、僕はアテネへ向かうので、空港に行くにはテルミニの近くに居た方が便利だろうと近場で安そうなペンシオーネを探す。 灯台もと暗しで、意外に駅の裏などでは安い宿がある事はジュネーブで経験済みだったので、建物や看板の雰囲気で当たると簡単に安宿は見つかった。 チェックインすると、荷物を部屋に置いてすぐにテルミニ駅に駆け足で戻った。
 すでに列車に乗り込んでいるらしく、リザベーションに4人の姿はなかった。
ジュネーブ行きの列車のホームを駅員に聞き、車窓の中を確かめながらホームを歩いていると4人がいた。 いたのはいいが、ミラノ行きの列車に乗っている。 ミラノで乗り換えて行くと言うが、彼らの乗っている列車の横のホーム、僕が探していた列車はジュネーブ直通だ、しかも発車時間は同じ。 その事を伝えると、早速4人は列車を乗り換える。
 列車は10分遅れでゆっくりとテルミニ駅のホームを離れだした。
「さようなら・・・・いつか又、会おな。」 4人が窓から手を振ってくれている。 僕も思いっきり手を振り続けるが、4人の姿はどんどん加速を付けるように小さくなり、やがて僕の視界から完全に消え去ってしまった。 もともと団体での旅は好きではない。 旅の仲間は旅先で作るものと言うのが僕の考えだ。 一人旅の適度な緊張と孤独感、出会いと別れ、そんなのがあるから旅は楽しいんだと、初めての一人旅で再確認したように思う。 それにしても、この何とも言えない寂しさは一人で旅している時には感じなかったものだな。 小村さんや田中さんの顔がまだ僕の瞼の裏に浮かんでは消えていく。 あの夜行列車での出来事やカプリでの土地の人達との交流、そしてポンペイでのちょっとした緊張・・・・・・おっと、そう感慨に耽ってる場合じゃない。 ローマを離れる前にもう一度、コッロセウムへ行って見たかったんだ。


コロッセウム再訪

 テルミニ駅からコッロセウムへ行くのは簡単だ。
駅前の五百人広場からカヴール通りを真っ直ぐに行けばいい。 こうやって一人で町中をゆっくり歩くのは随分と久しぶりのような気がする。 実際には数日前までは一人で旅をしていたってのに。 とぼとぼと歩いていると幾つもの道が交差する交差点に差し掛かった。 確かこの道を道成に進んで最初の大きな道を左折すればよかった筈だ。
 照明に浮かび上がったコロッセウムは少し離れて見ている分には綺麗で美しいと言う感覚しか感じないが、近づくにつれて何かしら不気味な感覚が僕の気持ちの中で生まれて来る。 この間、3人で来たときには感じなかった感覚だ。 
 コロッセウムの前まで来て一瞬、僕は中に入るのを躊躇した。
このトンネルのような所の奥に何が待ち受けているのか? いやいや、まさかね、トンネルをくぐったらそこはローマ時代で、猛獣が僕を待ち受けている・・・・はたまた、この競技場で犠牲になっていった数え切れない霊達に襲われる・・・・まさか、そんな事、と思いながらも、僕の足が急に重く感じられ、まるで僕の心のどこかで別の僕が「中に入るのは止めときな」と、僕に叫んでいるような気がする。 まさか・・・・映画じゃあるまいし、幽霊なんかより、その辺のポン引きの方がはるかに怖い。

 気を取り直して目前にある暗い通路の中へ足を運ぶ。
一歩一歩進む毎に僕の目は無意識に暗闇の部分に向いてしまう・・・・そこに何かが蠢いているような不思議な感触。
映画などで見たこの建物の中での色んな情景が、その闇の中に浮かんでは消えていく。 そして時々見詰められているような気配。
 そうだそうだ、この旅に出る数ヶ月前、二階の僕の部屋で寝ていた時の事。
深夜、何時だったろうか、急に息苦しさで僕は目が覚めた。 何時だろうと、時計を見ようと頭を動かそうとしたが・・・・動かない。 腕を動かそうとするが・・・・これも動かない。 体が全く動かないのだ、視線を動かす事は出来るのに、体が動かない。 必至に体を動かそうと足掻いてみるが、動くのは目と心だけで、その内脂汗が体中に出てきた。 心臓のドキドキという鼓動が自分の耳元に迫って聞こえてきて、まるで僕の心臓が僕の耳元にでも引っ越したような感じ。 僕の目の先には、窓から差し込んでいる月明かりが壁に落ちている。
 そのうち母の言葉を思い出した。 「若い頃、疲れた時によう金縛りにおうた事があるな。 そんな時はじっと心を落ち着けて、体の力を抜いて・・・・・」 この言葉を思い出した僕は、母の言葉に従った。 すると不思議、それまで身動き出来なかったのが嘘のように、脂汗が引き指先から動くようになってくる感じがする。 っと、その時、目に映っていた月明かりに照らされて、黒い人影が壁に映っているではないか。 僕の心臓は一瞬にフリーズドライされたような? 一瞬、心臓が止まったようなショックを受けた。 恐る恐るベッドから起きて、その窓に近寄りレースのカーテンを開け、外を見渡したが人の痕跡なんてどこにも無い。 第一、この窓の外に人が立つなんて事は不可能だ。
 そう、あの感覚。
あれ程のショックや恐怖感は無いものの、なんだか誰かに見られている(それも多くの)感触、そんなものを感じる。

 通路を抜けるとこの間見たのと同じ光景が目に飛び込んだ。
競技場の内側(観客席)は真っ暗だが、競技場の外面に当てられた照明のせいか、競技場の一番上、建物の稜線を境に空の部分の方が明るく見える。 当時の観客席に当たる部分を歩いていると、おや、猫の鳴き声。
 猫がいるのは前に来たときに気付いていたが・・・・暗さに目が慣れるに従って見えてきた。 
気が付くと僕の周りに何匹もの猫がいる。 しかも、目が気味悪く輝いてる。 「なーんや、猫だったんかいな。」一人言を言っても仕方がないが無意識にそんな言葉が出てしまう。 いや、そう言う事でさっき感じたあの、何だか気味悪い感覚、感触を猫のせいにしたかったのだ。
 そうなるとさっきまでの緊張感なんぞどっかへ飛んでって、心に大きな余裕。
石の上に腰掛けて空を見上げると、やっぱり、この建物の壁が僕を押し潰すのではないかと言うような圧迫感。 まるで、井戸の中から空を見上げているような感じ。 人間なんてこんな物かも知れんなあ・・・・・こうやってると、この競技場の壁の向こうの世界は何も見えてない。 見えるのは自分のごく近場と、競技場の上に広がる空、星。 でもなあ、そんな見えてる星達の事だって、ただ見えてるだけで何も解っちゃいない。 

 さて・・・と、明日はアテネ。
旅の最後の地へ向かわねばならない。 一体どんな体験を僕にさせてくれる街なんだろう。
宿に帰る頃、街中には人影も少なく、時々出合う女性が声を掛けてくれるが・・・・・帰国後、その事を友達に話したら「そりゃ、お兄さん楽しい夜を過ごしましょ、っちゅうやつや。 お前何もせなんだんか?」って、そんな事は知らんし、その気も無・・・・くは無いがお金もない。 言われてみれば、みんな綺麗だったなあ。