モンマルトル

 7月26日(木)
7時に目が覚めたが、窓から射し込む光で今日も快晴とは言えない予感がする。
今日はパリを出てスイスに行こうと思っているが、そう慌てることもない。 まずは手ぶらでホテルを出てリュクサンブール公園まで散歩。 
 欧州の都市には大きな公園が幾つもあって羨ましいと思うが、これらの公園もその殆どが元を正せば貴族や王族の庭園だった事を考えると、この欧州だって初めから市民社会が出来上がっていたのでないって事だ。 これらの公園が最初から市民の為に造られたなんて、とんでもない誤解をしている人もいるようだけれどこれは大間違いだ。 その証拠に、この公園だって元はリュクサンブール宮殿の庭園だった。 
 人気の少ない公園を抜け、パンテオンの近くまで歩いてから再び公園に入ってベンチに座り、途中で買ったフランスパンにサラミを挟んだサンドイッチとコーラで朝食にする。 実にシンプルなサンドイッチだ。 フランスパンを輪切りにして真ん中を切り、その間にサラミのスライスを挟んだだけ。 野菜も何も入ってないが塩味が効いて上手いし、コーラがよく合うね。 僕はコレがすっかり気に入って、パリに来てから何度これを食べたろうか。 もっとも、懐が乏しいってのが最大の理由だけど。

 ホテルに帰ってから身支度をしてチェックアウト。
さあて、スイスに向かうんだけどまずは東駅に行かなければならない。
パリには向かう方向によって幾つかの駅がある。 僕が泊まっていたホテルの近くにはモンパルナス駅があるがそれ以外にリヨン駅、オーステルリッツ駅、サン・ラザール駅、北駅、東駅などがある。 今回向かうスイス方面には東駅から出る列車に乗る。 おかしな事に、東と北と言うと単純に考えて方角的には90度違う筈が、実際にはモンマルトルの近くに、これら二つの駅が近接して並ぶように建っている。 (ブロックは違うが)
 数日ぶりにザックを担ぎ、歩き慣れてきたアンバリッドからアレクサンドル三世橋、シャンゼリゼを横切ってオースマン通りに出る。 この通りは途中、名前こそ変わるがパリの街を西から東に横切ってる長い通りで、(西に行くと凱旋門に出る。)歩く方角さえ間違わなければ迷う事無くこの通りに出る事が出来る。 僕は知らない街を歩く時、その街を横切っている長くて大きな通りを何本か頭の地図に叩き込む。 こうしておけば、万一道に迷っても、その通りの方角さえ分かれば途中の細々した路地は無視してその方向に歩く事で、位置はどこでも、とにかくその通りにさえ出られれば何とかなる。 勿論、多少の無駄はあるが、こうする事で出来るだけ地図を見なくて済むし、その分、その土地を味わう事が出来て、知らない土地でも観光者独特の歩き方をしなくて済む。 これは安全面でも大きなメリットがあるよね。
 この通りにさえ出れば右折して歩いてけば右手にオペラ座が見える筈。
オペラ座が見えたらラ・ファイエット通りを上っていけば東駅と北駅の方に一本道だ・・・・こう歩けばまず問題は無かった。 所が、ラ・ファイエット通りを暫く歩いた所で何を思ったか急に、サント・トリニテ教会の事を想い出した。 いつもの悪い癖で、その言葉の響きでその地や建物に行ってみたくなる。 「ここからならすぐ近くだ。」 
 地図で位置確認する事無く、頭に描いたおぼろげな略図を頼りに教会の方向(と思われる方)に進路を変更した。 教会はサン・ラザール駅の近くだから万一迷っても、この駅から出ている線路で何とかなるだろう位に考えていた。 それに、東駅近く、モンマルトルの丘に聳える白亜のサクレクール寺院がいい目印にもなる筈だった。 所が、どこをどう間違えたか幾ら歩いても目的の教会が姿を見せない。 
 早い時期に地図を出して確認すれば良かったのだが、悪い癖で、歩いてる先に興味のありそうな景色が見えると、自分が道に迷った事も忘れてそっちへ歩いてく。 その内、辺りの景色がここ数日、パリで馴染んだ街中の物とは違って来て、住宅街のような中に入り込んでしまったらしい。 何とかサクレクールの姿を探そうとまた歩いて、時にちらっと見えるその姿から方角を見当つけて歩く(随分小さく見える)。  とうとう完璧に右も左も分からなくなってきた。 こうなったら太陽の方角を頼りに歩くしかない・・・・・と、正面から黒人が歩いて来るのが目に入った。 無意識に「パルドン」とその黒人に声をかけていた。
 何で「パルドン」なのかっていうと、ホテルにいた時、階段で何度か老女と出合ってこっちが彼女が降りてくるまで、上ってくるまで階段に足を掛けるのを待っていると、彼女が「パルドン」と「メルシー」って言ってたから、多分「失礼」とか「すみません」位の意味だろうと思ったから。 「パルドン」までは良いが後が分からないので「あのー、モンマルトルへ行きたいんやけど。」と日本語で尋ねる。 モンマルトルはフランス語の筈やから通じると思っていたら、相手が「言ってることが解らない」ってジェスチャーをする。 こうなりゃ何でもありや、「サクレ・クール」「テルトル広場」と何でも並べ、最後の手段。 ガイドブックを取り出してサクレクールの写真を見せた。 「解った」と日本語で言った訳ではないが、そんな表情をしてから付いてこいというジェスチャーをする。
 暫く歩いた後、彼はメトロの駅に入って行く。
おいおい、予算の関係でメトロなんて使わずに来たんだが。 階段を下りて行く途中、下を見てると切符が無造作に捨てられている。 その切符、おかしなことに一個だけ穴が空いてるのがあったり複数の穴が空いているものもある。 これは・・・・・「キセル出来るで。」 つまり、想像するに、パリの地下鉄の切符切りは自動でやね、月日の認識機能が多分、無いのやね。 それは判ったものの、彼の前でそんなことする訳にも行かないので、財布を出してお金を出そうとすると彼が切符を僕に一枚渡してくれる。 お金をと思ったが、いらないと言ってるようで、「オレは回数券持ってて、10枚分のお金で11枚ついて来るから気にすんな。」と言ってるらしい。 切符を切符切りに掛けて判ったよ、これならキセルやり放題やないか。(今はもう駄目だよ。)
 扉を開くのは手動で閉まるのは自動の車両を見て、その合理性に驚きながら、それに地下鉄なのに1等と2等があるのに驚きながら、暫く地下鉄に揺られて着いた駅。 サクレ・クールが見えても、彼は僕を寺院の下まで送ってくれて、「ここが君の行きたがってた場所だよ。」と言ってるようだ。 何でも持ってくるもんだね。 こんな事もあろうかと僕は日本から扇子を持ってきていた。 ザックから扇子を取り出して彼にプレゼントすると彼は大喜びで、紙切れに彼の名前と住所を書いて僕に手渡してくれる。 「困った事があったらここにおいで。」ってことらしい。 握手を求めてくる彼のごつい手に僕は両手で握手して別れる。

アレクサンドル三世橋 メトロで モンマルトルの丘に建つサクレ・クール寺院

 これまで見てきたゴシック様式の聖堂とは違い、このサクレ・クールはヴィザンチン様式とロマネスク様式が合体したもので、僕にとってパリと言えばあのエッフェル塔より象徴的な存在だった。 階段を一段ずつ踏みしめるように後ろを振り向かずに登り、登り切った所で後ろを振り向くとそこにはパリの街並みが広がっていた。 階段に腰を下ろして一服してると、僕と同じように腰を下ろして座っている一団の中からギターの音と歌声が聞こえてきた。 何の歌かは知らないが、やがてコーラスになる。 あれっ・・・・歌っているのは二人の日本人だ。 英語で歌っているようだけど、曲は聴いたことのない曲だ。 でも、周りに座っている人達は知っているみたいで、時々一緒に歌い出す。 
 一服した所で再びザックを背負い、テルトル広場の方に行ってみる。
決して広いとは言えない広場に、所狭しと絵描きの卵?達が集まって似顔絵や風景画を描いて売っている。 ぶらぶらと彼らの絵を見て回っていると腹が減って来た。 スタンドのような所で、あれは何だったんだろうか・・・(この旅の翌年の話だが、ロンドンのハイストリート・ケンジントンのスタンドで売っていた)シシ・ケバブに似たような食べ物を買って食べてみた。 これが美味い。 またぞろコーラとの付け合わせで食べると美味い。
広場を一巡して階段の所に戻ると、先日ノートルダム寺院で会った日本人のカップルと偶然にも再開。 暫く話してから、僕はこれからベルンに行くと言うと、この二人は今夜の列車で北欧に向かうとの事。 

 さあ、のんびりしてる場合じゃない。
最初はリヨン駅からTEE(チサルピン号)でローザンヌに入るつもりだったんだけど、モンマルトルの方を散策してなかったこともあって、東駅から出るTEE(ラルバレート号)でバーゼル経由ベルンに入ることにした。 チサルピンだと夕方にはローザンヌに入れるが、ラルバレートだとバーゼルに着くのが22時前で、乗り換えしてからベルンに着くのは24時の予定。 まあ普通の神経だとローザンヌの方を考えるが、寝袋持ってる僕は恐い者知らずで、それにベルンではぜひ会いたい物があった。
 モンマルトルの階段を下りて、北駅の前を通り東駅に向かう。
駅に表示されている時刻表を見て、ラルバレートの発車時刻とホームを確認する。
17:24発でバーゼルには21:58着予定。 バーゼル発ベルン行きが出るのが22:20だから、バーゼルでは十分に乗り換え時間がある。 TEEはその日の内に路線間を往復出来るダイヤが組まれているが、その日と言うのがくせ者で、その日とは24時間以内を意味する。 けっして朝出て、目的地からその日の陽が昇ってる内に帰れると言う意味ではない。 因みに、僕が持っているユーレイルパスはTEEも自由に利用出来るから、座席予約(全て一等)は必要だが新たに追加料金なんかを支払う必要も無い。 しかも、この予約はわざわざ予約窓口なんかに行かなくても、当日ならホーム内でも駅員がやってくれると言うからこっちも気楽なもんだ。
 ラルバレートが入線するのを待ち、ホームを歩いてる駅員らしき人を捕まえ「I want to go to Basle.」って言いながらユーレイルパスを見せると、「Basle?」と確認され、なんだか紙切れに車両番号とシート番号を書いて渡してくれた。 「エッ・・・・これが予約票?」
予約票?
 と思ったが、アバウトなフランス人のこった、これでええのやろ。 深くは考えんようにしときましょ。
 書かれた通りの車両に乗り込み指定のコンパートメントに行くと、窓際には上品そうな三十代初め位の女性が座っている。 目と目が合って・・・・カッコええ。 まるでファッション雑誌から抜け出たようなカッコ良さで・・・だいいち、頭にはちまき・・・・いやいや、ヘッド・バンドかバンダナと言うのか、を巻いとります。
 僕がキスリング・ザックを棚に上げようとすると、その格好いい女性がさっと立ち上がってザックを一緒に持ち上げてくれた。 「メルシーボック」と言ったが、それにしてもカッコええ・・・・・言葉が出ない。

 会話が無いまま列車はゆっくりパリ東駅を離れてスピードを徐々に上げていく。
これまで新幹線に乗ったことがない、列車にも乗ったことがない(電車でなくて、機関車で牽引する電車。)僕にとって脅威だったのは静かで揺れが無い事。 なにせそれまでに乗ったと言えば近郊電車か、中学の修学旅行で東京まで夜行に乗った位(それも寝台車じゃない。)の僕が、ヨーロッパの国際特急の一等車に乗ったんだからその感動といったらどう表現すればいい。
 車窓にのどかな田園風景が広がり出した頃、車掌がやって来た。
僕はユーレイルパスを出すと、車掌はそこに今日の日付を書いてくれる。 パスを僕に返すとき、車掌が「Japon?」と聞いてきたので「ウイ ジャポン」と答える。 これが良かったのか・・・・・この格好いいお姉さんが、「貴方は日本人なの?」ってな感じで聞いて来て、それから話が始まった。 と言っても、こっちは日本語に時々英語の単語が混じる程度、彼女も英語混じりのフランス語。 まずは日本のどこからって言うので、紙に地図を書いて淡路島も書いて見せる。 彼女も自分はここよって地図を書いてくれるが、どうやら途中で下車するらしい。 こうなると、会話+絵での会話が始まり、日本からパリまで何時間かかるのかとか、東京は何処だとかいろいろと話が弾み出す。 彼女の話では、彼女はパリのブティックで働いていて、実家に帰るところのようだ。 そうか、道理で格好いいと思った。
 窓には緩やかな起伏の大地が広がり、所々木々が密集した所があったり、牛や山羊?等が放牧されている。 まるで途方もなく広大な公園の中を列車が走っているような錯覚に陥るが、多分、この大地の本来の姿はあの木々が密集している部分の筈だ。 そう、綺麗に見えるこの景色(地平まで続く畑)は結局、彼ら白人が森林伐採をした結果の姿であって、本来のこの地の姿ではない。 そんな事をTVで見た覚えがあるな。 それにしても、相も変わらず天気はぱっとしない。 どんより曇った空はいつ雨が降ってきてもおかしくはない。

 外が薄暗くなって来た頃、彼女は停車した駅で降りていった。
どんな家に帰って行って、そこにはどんな人達が彼女を出迎えるんだろうかなんて事を想像してる内に車窓には暗闇が忍び寄り、そればかりか雨まで降り出して来た。 時間はもう22時近くだ。 
 やがてスーッと停車した駅のホーム上にBasleの文字が。
外に出ると結構冷える。 雨が結構降っているし外はもう真っ暗。
ホームにいた駅員に聞く「What number to Berne ?」。 今考えると凄い英語だけれど、当時の僕にはそんなこたあ関係ない。 第一、相手だって英語なんて出来ない(と思う)んだから、こっちは日本語にこれだけでも英語が出来るだけ上ってもんだ。 何も恥じる英語じゃあおまへん。
 時間は充分ある。
のんびり歩いて行くとベルン行きの列車はもう入っている。
2等と1等があるがそりゃあ1等に乗らな損だ(さすが関西人)。 ホームは間違いないが、念のため車掌にベルンへ行くことを確認してから列車に乗り込む。 TEEに負けない広くて綺麗、豪華な車両だ。 片側2列にもう片側は1列のシート・・・・・なんちゅう無駄使いや。 周りを見回すと、この車両に乗ってるのは僕以外に4人だけ。 どれも紳士風のおじさんばかりで、一人は新聞を読んでいる。 
 二人掛けの椅子に座り、ザックは棚に上げず、僕の隣の席に立てかけた。
やがて列車は暗闇の中を走り出したが、雨はやっぱり降っている。 静かな車内から外を眺めてみても、時折家の明かりが望めるだけで、景色は殆ど分からない。 ベルンに近づくにつれて、ちょうどパリに着く前の心境に似たものが沸き上がってきた。 適度な緊張感と孤独感・・・・・たまらんなあ。