『旅愁』・・・・37年目の出会い

 「この映画、どこかで見たことがある。」

1973を書き終えた2日後、何気なくTVのチャンネルを変えた僕の目に飛び込んできたのは、モノクロの古い映画の画面だった。 『ローマの休日』を想わせるその画面、でもそれじゃない・・・・ひょっとして、そう思うと僕の心臓の鼓動が高鳴ってくるのを覚えた。 もし、この映画が僕が思っている作品だとしたら、もう37年ぶりの対面になるだろうか。
 僕がまだ小学生の頃に観た映画に『旅愁』と言うモノクロ作品があった。
この作品の事はオーディオのコーナーでちょっと触れたが、幼なかった僕の脳裏に残っているその映画のシーンと言えばナポリを見下ろす丘の上のレストラン。 そのレストランのテラスに男女のカップルがいて、二人の向こうにはベスビオ火山が霞んで見えている。 そして、そのうち二人はレストランの片隅にあった蓄音機で音楽を掛ける・・・・・そんなシーンだけだった。
 このシーンが僕の脳裏から片時も消えた事が無かった。
たったこれだけのシーンなのに、その中の映像、流れていた音楽(メロディーなど覚えていない。 雰囲気ってことかな。)が漠然と常に僕の心の一部を支配していたと言っても過言ではないかも知れない。 『ローマの休日』や『旅情』、『野バラ』『フランダースの犬』、『鉄道員』・・・・・・きら星の如く輝く映画達と出合うのはこの映画を観てからの事である。 僕にとっての外国のイメージ、それは初めて観た名も知らない外国映画と、この『旅情』と言う映画そのものなのだ。
 新聞で確認すれば直ぐに分かる事。
でもそれはやめとこう。 観ていれば分かる事だ。 そう、『旅情』を観たいと思ったことは何度もあるが、何れどっかで出合う事があるだろうと、これまで僕は意図的にこの映画を観る機会について自分で求めることはしなかった。 

 その話はある飛行機の中から始まった。
妻との離婚の為にアメリカに帰ろうとしている実業家と、イタリアでピアノの勉強をしているある若いアメリカ人ピアニスト、彼女はアメリカでのピアノコンサートの契約の為に帰国する所だった。 所が、二人が乗り合わせた飛行機はエンジン不調のためナポリに不時着する羽目になる。 寄港の間、二人が昼食に出掛けるが、その間に飛行機はアメリカに向けて飛び去ってしまう。
 直ぐにアメリカへ戻ろうとするが、出合ったガイドの「ポンペイやカプリは見たかい・・・・・」なんて言葉に、そしてこの実業家の誘いもあって二人はナポリからカプリ島へ渡り、ソレントからポンペイと旅する。 旅するうちにお互いが相手を恋人として意識し始める。 そんな時、二人が乗る筈だったあの飛行機が墜落したと謂うニュースに接する。 ニュースによれば二人も亡くなった事になっている。 この事を知った実業家はピアニストの彼女に、このまま二人は亡くなったことにして、二人で新しい生活を始めようと提案する。
 フィレンツェに移った二人はそこに豪華な邸宅を借りて生活を始める。
ある日、ピアニストの先生で友達でもあるマリヤがこの家を訪れるが、彼女は二人の生活を「真実では無い仮初めのもの」と忠告するがピアニストは聞き入れない。 
 やがて、二人が生きている事がアメリカにいる実業家の妻の耳に入り、彼女と息子がイタリアまで実業家の旦那に会いに来る。
その時はマリヤの機転で、マリヤが実業家と生活しているという事で切り抜けるが、息子は壁に掛けられていた写真からマリヤではなく、側にいた若い女性が自分の父と暮らしている事に気付く。 しかし、実業家の妻は夫を縛ることをせず、自由にさせてやりたいと二人の生活を認める。 そんな時、実業家はふとした事で自分が経営する会社の製品と出くわした事で、イタリアで事業展開を企てる。 再び仕事にのめり込んでいく実業家と、そしてピアノへの思いを再び膨らませる若きピアニスト。
 二人の中が認められた事により、アメリカでのピアノコンサートの夢が再燃して来た女性と、アメリカで息子と再会することを切望する実業家。 二人はアメリカへ行くことを決心する。 しかし、このアメリカ行きは結果的に二人の悲しい結末の始まりだった。

 映画の中で問題のシーンがあったのか?って。
そう、あったんですね。 蓄音機で掛かっていたのがイタリア民謡だったように記憶していたけれど、どうもそうでは無かったらしい。 でも、あのシーン、あの音、そして何より驚いたのは二人がカプリからポンペイを旅した足跡が1973で僕が旅したイタリアの足跡に多く一致するという事だった。 マリーナ・グランデやマリーナ・ピッコラ、そうそう、二人が海水浴するシーン、あれは僕等がごろ寝したインデアン・ハウスの前だし、青の洞窟も行ってたんだ。 ポンペイの街路に掛けられた渡り石を渡るシーン、そう、僕もああやってあの石を渡ったんだ、1973でも、新婚旅行でも、ね。

 イタリアでの旅は2人の日本人と共に旅した日々だった訳だけど、このコースは旅に出る前から僕の頭にはあった事。 あの時、一緒に旅した二人とは、どうしようと謂う相談は無かったにも拘わらず、暗黙のうちにこのコースを辿ったのは偶然だろうか? しかも、当時まだカプリ島は今ほどポピュラーな観光コースでも無かったのか、島であった日本人は例のNさん夫妻だけだった。
 記憶には残っていないと思っていた多くのシーンが、僕の潜在意識のどっかに実はしっかりと残っていたのだろうか?
映画の中で見た映像の数々、それはモノクロでありながら新鮮にしなやかに、そしてカラーに勝るとも劣らないカラフルさで再び僕の脳裏に焼き付いて離れない。 
 
 1973
この旅はひょっとしたら、この『旅愁』を見たときにすでに始まっていたのかも知れない。
この旅で撮った多くの写真も今や色褪せて来て、ここにアップするに当たっては画像処理ソフトで多少の補正をしてある。 しかし、一枚一枚の写真、そう、全てのシーンで、撮影した時の感動や心の動き、ファインダーを通して見た景色や人物像、それに時々の温度感や臭いまで、不思議と覚えているように思う。 写真は色褪せても、あの旅の一日一日の感動は今も何ら色褪せる事無く、僕の心に今も脈打っている。